2014年5月22日木曜日

第243話 多少の進展

さて今日のテーマは、通常のローマの街歩きのレポートではありません。

「多少の進展」と題しましたのは、かつてからの疑問?に確証を得ることが出来ましたことのお知らせ①と、確証には程遠いのではありますが、

初めて、②同調者(唯一人ですが)を得ることが出来ましたので、これらの
ご報告をお伝えしたいと考えたからであります。


先ず①について
疑問の内容とは、「9月20日通り」(今年3月、4月に掲載しました)と名つけた以前の通りの名前を探したことです。いろいろな方に伺いました。

振り返ってみますと、1870年9月20日イタリア王国軍が、アウレリアヌス城壁の一角、ピア門(ポルタ・ピア)の近く(ピアッツア・ヒューメ方向より)を突破して、教皇領側に入場した。

そして、教皇が住まいとしていたクイリナーレ宮殿をヴィットリオ・エマヌエレⅡ世国王が新たな住みかとした訳であります。

このピア門からクイリナーレ宮殿までの1.5KMほどの通りの名前を何と呼んでいたのだろうか?と言うことがそのころ疑問に思っていたことです。


さて、先週16日〔金〕の夕方にいつものように9月20日通りを散歩して、
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会(ベルニーニの彫刻”聖テレサの
法悦”で知られています)正面左側コーナーにコムネ(市役所)が教会の

歴史・由縁を説明した案内看板を何と無く読んでみましたら、「Oh!」と
叫びたくなるほどビックリ!するような明快な回答を得ることが出来ました。

 
上の写真がその説明文ですが、縦に接続したので判読しにくいのですが
3枚目一番最初の行に「VIA PIA」続いて(now VIA ⅩⅩSettembre)と言う文字がお眼に止まりますでしょうか?この一か所の説明に依って、
3カ月に亘った私の疑問は、スット晴れ渡ったのでした。
 
 
その②同調者を得ることができた、というお知らせです。
 
同調者とは、そもそも何を同調した人なのか?ですが、およそ3年に亘って、独り善がりの推測、否空想でしかないのかも知れませんが、
 
これまで幾度となくブログに取上げて参りました「青海波」デザインの源についてであります。一体、日本独自のものか、シルク・ロード経由にて東は日本へ、そして西はローマへ伝播されたデザインなのだろうか?
 
はたまた、イタリア中部に紀元前8世紀頃に高度な文明を誇ったエトルスキーにその源が在ったのではないだろうか?という、やっぱり空想と言うべきか、ヒント或はインスピレーションへの同調のことであります。
 
 
やはり先週15日〔木〕午後のことでしたが、仕事の商談相手であるレンツォ氏が、トリノ通りに面したアプローチ(ある事務所への)のデザインを示さして曰く、「このカタチは、エトルスキー時代からのデザインですよ!」と、さり気なく話してくれました。
 
氏は、デザインに関わる仕事柄、専門的な知識を有している方とお見受けします。そのようなイタリア人から、想いもせずに発せられたこの一言に
甚く感動した次第です。やはり、このようなこと(青海波デザイン)に想いを寄せる人が居たことに驚きかつ嬉しく思った訳です。
 
5月6日のブログにご紹介しました展示会「エトルスキーと地中海」(ローマ展示館にて7月20日まで開催)は、レンッオ氏も出掛けられたそうです。
 
そんな訳で、たった一人の発言ではありますが、多少なりとも心強い勇気
を頂けたように思い、感謝しているのであります。
 
そしてローマに居る間にこの疑問がすっきりと解消出来ることを願いつつ散策を続け、きっかけとなる人との出逢いや物証との出合いを期したいと思っています。
 
 
疑問あり 気長に探す 根気よく                         
 
青海波 うなばら遠く 砂浜に 
                      元鷹

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