2014年5月27日火曜日

第244話  パスクィーノ像

ローマの天気も遅まきながらやっと夏型の安定した様相を見せてくれるようになりました。大通りを闊歩する観光客のファッションは、既に夏そのものとなっております。

さて、ローマの観光名所の一つに”ナヴォナ広場”があります。
数多くある知られた広場の中でもこの”ナヴォナ広場”は、ローマの魅力を
凝縮したような広場であり、かつ最大級の広場であります。

このナヴォナ広場の一角に大変ユニークな形をした石像が建っているのをご存じでしょうか?
場所は、Piazza di Pasquino (ナヴォナ広場近くになります)です。

この石像を「パスクィーノ」と呼ぶそうでございます!
曰く因縁をご説明するほどの調査が出来ておりませんので、ガイド本から
一部抜き書きさせて頂きます。

”かつていくつかの古代彫刻が風刺文のビラを張る場所に利用された。
これら古代彫刻のひとつ『パスクィーノ』にちなみ、反体制的な誹謗文書をパスクィナータと呼ぶようになった。”
  ※抜粋は、「ROMA」同朋舎出版p46、伝承と風習 より

また、もう1冊のガイド本から引用をさせて頂きます。
   (地球・街角ガイド タビト ROMA P.124 パスクィーノ)より

 
”パスクィーノはローマでもっとも有名な「もの言う像」だ”

”この大理石像はヘレニズム彫刻の残骸で、『イリアス』に登場する、奴隷のパトクロスを楯で守るメネラオスを表したもののようだ。1501年にこの街角に建てられるまでは、たんなる道端の踏み石だった。その付近にパスクィーノという名の口の悪い靴直し屋がいた。そのころのローマは言論の自由がなかったので、彼はそのときどきに感じた当局などへの不満を皮肉なコメントにしたためて、この像に付けた。”

以上の2冊の本からの引用で、多少なりともこの石像の意味合いをご理解戴けましたでしょうか!?

ガイドブックに依りますと、政府、教皇、そのほかへ批判、不満などを訴える目的で利用したこのような「もの言う像」はと言いますと、他には2点あります。

①マルフォーリオの像(カンピドーリオ美術館/パラッツォ・ヌオーヴォ)
②マダム・ルクレツィアの像 
  ※ローマでは、一連の「物言う像」をしゃれで「機知の修道会」(アルグーティ)と呼 ぶ。ルクレツィアは、そのなかの紅一点。

   ※抜粋は、同上に記した「ROMA」 同朋舎出版p47より。

話し好き、おしゃべりなことでは、天下一品の人達が、言論統制が厳しかった400年前の昔には、石像にビラをはって鬱憤を晴らしたり、市民の井戸端会議代わりに使用したと云うのも、「ナルホド、ローマかな?」と感心しております。

              顔はすり減って凹凸が見られません。
            500年以上前からこの場所に建っていた
            のでしょうか? 

            
              パスクィーノ像 正面から撮りました。
            ナヴォナ広場を訪れる時には、是非ご覧下さい。



               パスクィーノ  役割終えて 静かなり  
                                 
                 
                                  元鷹 




2014年5月22日木曜日

第243話 多少の進展

さて今日のテーマは、通常のローマの街歩きのレポートではありません。

「多少の進展」と題しましたのは、かつてからの疑問?に確証を得ることが出来ましたことのお知らせ①と、確証には程遠いのではありますが、

初めて、②同調者(唯一人ですが)を得ることが出来ましたので、これらの
ご報告をお伝えしたいと考えたからであります。


先ず①について
疑問の内容とは、「9月20日通り」(今年3月、4月に掲載しました)と名つけた以前の通りの名前を探したことです。いろいろな方に伺いました。

振り返ってみますと、1870年9月20日イタリア王国軍が、アウレリアヌス城壁の一角、ピア門(ポルタ・ピア)の近く(ピアッツア・ヒューメ方向より)を突破して、教皇領側に入場した。

そして、教皇が住まいとしていたクイリナーレ宮殿をヴィットリオ・エマヌエレⅡ世国王が新たな住みかとした訳であります。

このピア門からクイリナーレ宮殿までの1.5KMほどの通りの名前を何と呼んでいたのだろうか?と言うことがそのころ疑問に思っていたことです。


さて、先週16日〔金〕の夕方にいつものように9月20日通りを散歩して、
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会(ベルニーニの彫刻”聖テレサの
法悦”で知られています)正面左側コーナーにコムネ(市役所)が教会の

歴史・由縁を説明した案内看板を何と無く読んでみましたら、「Oh!」と
叫びたくなるほどビックリ!するような明快な回答を得ることが出来ました。

 
上の写真がその説明文ですが、縦に接続したので判読しにくいのですが
3枚目一番最初の行に「VIA PIA」続いて(now VIA ⅩⅩSettembre)と言う文字がお眼に止まりますでしょうか?この一か所の説明に依って、
3カ月に亘った私の疑問は、スット晴れ渡ったのでした。
 
 
その②同調者を得ることができた、というお知らせです。
 
同調者とは、そもそも何を同調した人なのか?ですが、およそ3年に亘って、独り善がりの推測、否空想でしかないのかも知れませんが、
 
これまで幾度となくブログに取上げて参りました「青海波」デザインの源についてであります。一体、日本独自のものか、シルク・ロード経由にて東は日本へ、そして西はローマへ伝播されたデザインなのだろうか?
 
はたまた、イタリア中部に紀元前8世紀頃に高度な文明を誇ったエトルスキーにその源が在ったのではないだろうか?という、やっぱり空想と言うべきか、ヒント或はインスピレーションへの同調のことであります。
 
 
やはり先週15日〔木〕午後のことでしたが、仕事の商談相手であるレンツォ氏が、トリノ通りに面したアプローチ(ある事務所への)のデザインを示さして曰く、「このカタチは、エトルスキー時代からのデザインですよ!」と、さり気なく話してくれました。
 
氏は、デザインに関わる仕事柄、専門的な知識を有している方とお見受けします。そのようなイタリア人から、想いもせずに発せられたこの一言に
甚く感動した次第です。やはり、このようなこと(青海波デザイン)に想いを寄せる人が居たことに驚きかつ嬉しく思った訳です。
 
5月6日のブログにご紹介しました展示会「エトルスキーと地中海」(ローマ展示館にて7月20日まで開催)は、レンッオ氏も出掛けられたそうです。
 
そんな訳で、たった一人の発言ではありますが、多少なりとも心強い勇気
を頂けたように思い、感謝しているのであります。
 
そしてローマに居る間にこの疑問がすっきりと解消出来ることを願いつつ散策を続け、きっかけとなる人との出逢いや物証との出合いを期したいと思っています。
 
 
疑問あり 気長に探す 根気よく                         
 
青海波 うなばら遠く 砂浜に 
                      元鷹

2014年5月19日月曜日

第242話 オペラ ”愛の妙薬” 観劇

5月8日〔木〕には、TEATRO DELL'OPERA DI ROMA(ローマ歌劇場)
では、"L'elisir d'amore"(愛の妙薬)が初演を迎えました。
続いて、9日、10日、11日、13日、14日の計6回の公演でした。

いつ、どこでは全く記憶に無くなっているのですが、かつて日本で観たことがあり、ローマ歌劇場での公演を楽しみに待って居たところでした。

8日の初演にガレリア(天井桟敷)のいつもの席から、ローマでは初めて観る”愛の妙薬”全編2幕を楽しみました。その時の感想を記して置きたいと思います。

これまで観た舞台との大きな違いは、舞台美術の優雅さ、光の演出力、
大道具小道具の可愛らしさ、そして衣裳のカラー(緑・白・赤の3色基調)
が、其々際立って見事なことでした。

普段は、全編3幕から4幕の舞台で時間を長く感じることが多いのですが、”愛の妙薬”は珍しく2幕であり、軽妙なテンポの演出も楽しくて、あっと言う間にフィナーレを迎えてしまいました。

ところで作曲は、ベルガモ生まれのガエタノ・ドニゼッティ(1797-1848)によるものです。ベルガモは、ミラノの北東に位置した街です。

街には、テアトロ・ドニゼッティと名付けられた劇場があるそうで、オペラシーズン(9月~12月)には、彼の作品が常時プログラムに入っているとのことです。私には、一度訪ねてみたい処の街になりました。

さて、私の隣の席には、普段と違って中国人と思しき二人の若者カップルが、熱心に舞台を観ていたのでした。

一幕が終わった休憩時間に挨拶を交わしたのですが、男性はオペラをローマで勉強しているプロ志望のバリトン歌手の卵のようでした。

このバリトン歌手の話し方や物腰には、リラックスした表情の奥側には オペラ歌手を目指す覚悟のようなものを感じて、ついつい感心してしまいました。

ローマには、情熱を滾(たぎ)らせて音楽に全精力を傾けるアジアからの若者が少なく有りません。大いにその力を集中発揮して大成されんことをこころから願うものであります。

ガンバレ!アジアの若き音楽家よ、日本の若き音楽家よ!!と叫ぶのであります。


            「愛の妙薬」第一幕 音楽、光、衣裳など
            耳目を奪うほどの軽快さに心が躍るようでした。

            
まるでお伽の国から繰り出してきたかのような
いでたちに夢心地の喜びを与えてくれました。
 
フィナーレにて登場した歌姫たちの表情には
初演を無事に終えた後の喜びで溢れていました。
 
 
これほどに 心躍る オペラかな
                    元鷹

2014年5月13日火曜日

第241話 ヴィットリオ・エマヌエルⅡ世広場の風景

突然、「このアングルはいいぞ!」と夢中になってしまいました。

場所は、”ピアツァ・ヴィットリオ・エマヌエレⅡ世”にあります
噴水跡(実際に水は無く噴水とは呼び難いのですが)の辺りでした。

ローマの五月晴れは、気持ちが晴れ晴れとしますが、この日は
格別に気持ち良く、公園の緑も一段と映えて美しく、これまでに訪れた
なかでは最も気持ちが弾んだ散歩日和だったと申せます。

「論より証拠」の諺・格言の通り、先ずは次の写真をご覧ください。

緑に囲まれた彫像と遠方に見える
               サンタ・マリア・マッジョーレの鐘楼
                 空の青と地上の緑の競演が眩い   

 
さて、ご覧頂いた彫像(しっくい)の彫刻家をご存じでしょうか?
かつて取上げたことのある共和国広場のナイアディの噴水を想い出しませんか?

ナイアディの噴水は、パレルモ出身の彫刻家マリオ・ルッテリが1901年に設計・施工したものと紹介されています。同じパレルモ出身の彫刻家
ヴィンチェンツオ・ラグーザを想い出しますが、近世の彫刻家は南イタリア出身の人が、活躍しているように思われます。

但し、この時には4体のニンフのブロンズ像が、設置されただけで現在のような中央に巨大なブロンズ像「海神グラウコスの像」が加えられたのは、1911年になってからだそうです。

話は、写真の彫刻にもどりますが、上記の「海神グラウコス像」は2代目だそうで、初代の像がこの広場に建つものです。

この像は、最初に先の共和国広場のナイアディの噴水の中央に設置されたそうですが、ローマっ子の評判が大変悪く、取り払われてしまったとのことでした。その初代の像が、ここに移されたものであります。

さて、控え目ながら写真中央に三角形の白い帽子が被ったように見える塔は、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂に建つ大鐘楼です。ローマ7つの丘の一つ「エスクイリーノ」にあって、ローマで一番背の高い(75M)鐘楼としても知られています。

                
アップしてみました。海神グラウコスは両腕で
イルカを抱き込んで離しません。そのイルカの
口から天に向かって、水飛沫が高く舞い上がる
構図になっていました。
 
 
なぜに此処 市民の憩い グラウコス
                       元鷹 
   

2014年5月7日水曜日

第240話 サンタ・ヴィヴィアーナ教会とベルニーニ

5月のこの時期はいつもポプラの綿のような花粉が、空中をまるでクラゲが泳ぐように飛んでいたのだろうか、と思いを巡らしながらテルミニ駅の正面右側を走るVIA G.GIOLITTIをとぼとぼ歩いた。

今回で2度目の訪問となりますが、G・ロレンツオ・ベルニーニの彫刻をぜひ見てみたい、と言う思いが募ったからでした。ネット情報でもご覧になられますが、ベルニーニの彫刻、建築は共和国広場、テルミニ駅、バルベリーニ広場周辺に点在している、と言えます。

さて、目当ての彫刻が祭壇にあるサンタ・ヴィヴィアーナ教会には、テルミニ駅からおよそ10分ほどで到着しました。教会は修復中ですが、中に入ることが出来ました。(時間によっては外側だけの見学となりますので注意が必要です)

場所は、トラムの線路と国鉄線脇に位置したところにあって、ややもすれば通り過ぎてしまうほど目立たない立地に在ると言えます。

教会は、中世紀の建築でベルニーニの修復(17世紀前半か)もあったようですが、小ぶりながらも両壁面のサンタ・ヴィヴィアーナを物語るフレスコ画などに時代の貫録を感じさせる雰囲気が十分ありました。

残念ながら、連続したフレスコ画による物語を眺めるだけでは、どのような生涯をおくった聖人なのかを理解することが出来ませんでした。

さて、肝心のベルニーニのサンタ・ヴィヴィアーナ像ですが、撮影しました写真をご覧ください。教会の祭壇中央に置かれていますから、時間が許される限り、じっくりと観賞することが可能です。

サンタ・ヴィヴィアーナ像
            バロック藝術の鬼才G/ロレンツオの若き時代に
            つくられたものだそうです   


           
アップしたもののズームの仕方が
               良くありませんでした
             左手に持つ(画面右)モノは一体なに?

            
中央祭壇のトップには、御覧のように
              蜂2匹を描いたステンドグラスが飾られています
              一番上には、法王のブランド・マークを見ることができます。
            ときの法王はURBANUS(またはウルバーノ)Ⅷ世でした。



              ベルニーニ バロック創造 意思の人 元鷹  

第239話 「エトルスキーと地中海展」と青海波デザイン考

ローマへお越しになられた際に立ち寄って戴きたいところの一つに
”PALAZZO DELLE ESPOSIZIONI”[市立展示館]があります。

凱旋門のような正面と幅広い階段をもつこの建物は、建築家ピオ・ピアチェンチーニの設計となります。

市立展示館はナチォナーレ通りとミラノ通りの交差点に位置しており、
白く大きな建造物ですから、直ぐにお分かりになられることと思います。

この展示会場では、現在4月15日~7月20日の期間ですが、
「Gli Etruschi e Il Mediterraneo」(エトルスキーと地中海展)を開催中です。

”Etruschi”(エトルスキ-)は、古代ローマの歴史が起る(紀元前8C)以前にイタリア半島の中部トスカーナ地域を中心に栄えた文明です。幻の文明とも言われて、どこから来て何故消えた(?)のか詳細は不明だそうです。

しかし、これまで発掘された数多くの墓、建造物などからは文明度の高い多くの遺品、装飾品が集められており、その暮らしぶりや文化度の高さなどが偲ばれています。

さて、会場に展示されていたいくつかの器のデザインを見てハッとしてしまいました。

日本の伝統的なデザインの一つ”青海波”(せいかいは、又はせいかいば)に似通った形をした器を見つけたからでした。

ローマ市内のペイブメント(正確には、歩道から建物へのアプローチ部分、或は駐車場などに見られます)にも、この青海波文様が至る所で見られて、その都度「歴史・蘊蓄」を突き止めたいものだ、と久しく私自身の
宿題になっているデザイン文様なのであります。

これまでも数回に亘ってブログに取り上げさせて戴きましたが、勝手な気ままな仮説を「絹の道(シルクロード)」によるもの、即ち東西の交易によって、東は日本へ、西はローマへ伝わったデザインだったなのではないだろうか?と推測の域を飛び越えられずにおりました。

しかし、今回の展示会で発見?した器の文様は、どうしたものでしょうか?会場で購入した展示品解説本によれば、この器の製造年代は6~7A.C(紀元前)と示されていますから、私の根拠のない仮説は、脆くも一気に吹っ飛んだ、ような気がしてしまいました。

待てよ、全くの偶然と言うことも世の中には在るではないかと、一抹の期待感が頭を過ったものの、エトルスキー文化の美を眼前にしては、そんな
ちっぽけな期待感など持つこと自体に恥ずかしさを感じてしまいました。

とすれば、今日のところの妥協案としては、「デザイン青海波」は幻の文明
エトルスキーが原点であるとするのが、一つの見方ではないだろうか、と
こころを落ち着かせた次第です。

それにしても”Etruschi"の文明は凄いと唸らずには居られません。
今回は、読者各位のご意見あるいはご批判を乞うものであります。

 波形の整美さ、配列の優雅さが素晴らしい
                 H27.4cm、直径14cm、650~620A.C
                 出所:Cerveteri,tomba di San Paolo
                                          出典:Gli Etruschi e il Mediterraneo
                                                  SOMOGY/EDITIONS D'ART p.122-123
               
                         
               箱モノなのか器なのか不明、
              しかし、青海波は整っていて美しい
             
    

              6A.C 、テラコッタ
             出所:Cerveteri   
             H22cm、 L53.3cm、 pr10cm
               出典:同上、p168-169

            
 
テルミニ駅近くガエタ通りに在る駐車場敷地
をかたどる青海波デザインです。
これは一例でしかありません。これまでも
ご紹介のように敷石ほか、鉄製扉などにも
このデザインは、多く見られています。
 
 
 
青海波 エトルスキーの 波高し
                   元鷹

2014年5月5日月曜日

第238話 ”スーパー・マン”との会話

これが本当の話であることこそが、ローマに居ることの面白さの一つで
あると申し上げても良いかも知れません。

その「本当のお話し」を続けたいと思います。

去る4月20日〔日〕夕方でした。場所は、ローマ・テルミニ駅構内。
”スーパー・マン”の姿が眼に映ったのでした。そんなことがあるものか、と己の眼を凝らしてじっと見詰めても間違いない、”スーパー・マン”でした。

  
以下は、二人の会話です。

私:あなたは”スーパー・マン”ですか?名前は”クラーク・ケント”ですか?
 
S:そうです!でも名前は「パスクワーレ」と言います。
私:GYAFUN!

私:あなたは、ニューヨークからローマに来たのではないのですか?
S: いや、私はシチリアのパレルモから来たのです。今日で3日目です。
私:GYAFUN!!

私:1枚記念写真を撮っても良いですか?
S:結構ですとも。でも、1€でも良いですからお金を下さい。
私:然り! (1€を写真撮影代を渡しました)
S:それでは、どうぞ!(ポーズ)

以上が、”スーパー・マン”との短い会話でした。
もうお分かりかと存じます。
シチリアの”スーパー・マン”は、パレルモから出稼ぎに来ていたのです。

ローマには飛行機で、否、空を飛んで来たとも決して思われません。
別れ際に握手をしたのですが、その時のシチリアの”スーパー・マン”の
笑顔は優しい表情だったことが、今でも忘れられません。

ありがとう!シチリアの”スーパー・マン”。


            ローマに現われた愛すべき
                         ”シチリアのスーパー・マン”
            撮影代金だけで採算が取れたのか些か
              気になるのですが・・・ 
            幼い時の夢を果たしてくれたのです!


            パスクワに ”スーパー・マン” 巡りあい
             名こそ留めよ パスクワーレと    
                                  元鷹






第237話 ポルタ・ポルテーゼ

5月4日〔日〕を迎えて、ことしのゴールデン・ウィークもいよいよ後半へ。
読者の皆さまには,如何にお過ごしでしょうか?

ローマ・ヴァチカンは、聖人列聖の日〔4/27〕のお祭り騒ぎも鎮まったものの聖地巡礼の人波の多さは相変わらずの勢いです。

今日の訪問地は、「ポルタ・ポルテーゼ」またの名を「蚤の市」あるいは
「泥棒市」と呼んでいる少々危なかしさも味わせて貰えるようなスポットです。

普段の生活でもスリ、置き引きとのリスクと隣り合わせに居ると云うのに態々「泥棒市」へ出掛けなくても良いではないか、と思うところもあるのですが、どういうわけかここにも足跡を残したいと出かけることにしました。

テルミニ駅百人広場から、NO.170のバスに乗車してポルタ・ポルテーゼまではおよそ20分かかります。下車は、スブリチオ橋て手前にあるエンポリオ広場が便利です。その橋を渡れば、目の前に「ポルタ・ポルテーゼ」〔ポルテーゼ門〕が現われてまいります。

ぜひ見て置きたい噴水の一つにエンポリオ広場内にある「壷の噴水」が
あります。確か、1930年代に作られたもので、何でもローマ市内の地域の特性を表現した噴水で全部で市内に9か所あるそうです。その一つが
「壷の噴水」です。

それでは、なぜここの地域は「壷」なのかと言いますと、昔〔古代ローマ時代〕ここは油の集散地〔市場〕だったらしく、直ぐ傍のテヴェレ川から油の入った「壷」〔粘土焼のテッラコッタ〕が、この地域に大量に集まったらしい。

さらには、この地域には昔に使われて捨てられた壷の小高い山状になったところがあり、”TESTACCIO”(テスタッチオ)と称されています。

※このテスタッチオ地域は、ローマ料理のトリッパ(牛の胃袋)などが有名  
  です。

そんな古代のことをイメージしながら、ゆっくりと「壷の噴水」を眺めてみるのも気分転換になるに違いない。ただ残念ながら、噴水と言いながらも現在は、水が流れていないのが惜しまれます。

 壷が重なり合うようなデザインの噴水です。
            水がどんな風に流れていたのか、興味があります。

さて、いよいよ目指す「ポルタ・ポルテーゼ」へ!急ぎます。
テヴェレ川に架かったPONTE SUBLICIO(ポンテ・スブリチオ)を渡ると
直ぐに左手にソレらしいと思われる門構えの入口に着きます。

近くに居た婦警さんに尋ねてみましたが、間違いありません。
これが泥棒市、否、”ポルタ・ポテーゼの市”のスタート地点なのでした。

長い長い市です!道路両側に陣取ったバンカレッレ(露天商)の多いこと、多いこと。地図を見てみれば、おそらく1KMはあるに違いない、と思うほどの露天商通りです。

この市で見かけた行き違う人は、殆ど外国人観光客らしい人達でした。

スペイン広場の高級老舗街を引き合いにするまでもありませんが、
騒音の中、ホンモノ・ニセモノを冷かしながら見て歩く「ノンビリ歩きこそ」が
”ポルタ・ポルテーゼ”の醍醐味ではないか、と1人合点して早々に帰りの
バスに乗りました。

            
ポルタ・ポレテーゼ
            市を見て回ってから門を出て行こうとする
             人の後ろ姿

            
            
 
右側の露天商には「€3.00」均一の
大きなオレンジ色の看板が吊るされています。
 
数多くの露天商、青空市を見た後の地元の
花屋さんに辿りついて、何かホット安らぎを
頂きました。ありがとうございました。
 
 
五月晴れ テヴェレ挟んで 吾遊ぶ
                         元鷹
 
 
 

2014年5月2日金曜日

第236話 パレストリーナを訪ねて そのⅡ

引き続いて第236話そのⅡへ入ります。その前に前話第4行目に
「パスクワ」とすべきところ「パスク」と誤って記述していることが、先ほど
読み返して分りました。訂正させて頂きたいと思います。失礼しました!

教会をほど良い(何が程良いか?不明ですが。)タイミングにて辞した後のお話しを続けたいと思います。なぜ、パレストリーナへ来ようと決めた理由を前回に明言しておりませんでした。

それは1年前ほど前になりますが、ローマならびヴァチカン市国≪サン・ピエトロ大聖堂≫で開催された髙田三郎生誕100周年記念/ジュリア聖歌隊500年祭招待演奏会の為に来伊されていた男性合唱団『東海メールクワィアー』〔会長都築義高〕の皆さんとの出逢いがきっかけとなりました。

演奏会前日の緊迫した練習会場〔サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会〕に出向いて、ご許可を戴き練習を拝聴させて頂いた訳ですが、この時に聴いた曲に感動したことが、今回のパレストリーナに行ってみたい、という
動機付けになったのです。

イタリア・ルネッサンス後期音楽家ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ〔Giovanni Pierluigi da  Palestrina〕は、カトリックの宗教音楽を数多く残し、”宗教音楽の父”と呼ばれています。

少々おわかり憎いかも知れませんが、彼の名前には「da Palestrina」と付いていますね。英語で言うと「from Palestrina」となります。丁度、レオナルド・ダ・ヴィンチ⇔ヴィンチ〔村〕のレオナルドと呼ぶが如し、であります。

さて、話をパレストリーナの街に戻します。
早々に教会を後に、さらに坂道をゆっくり登りました。しかし、行ってみたいパレストリーナ生誕ゆかりの跡〔生家〕は見当たりませんでした。

坂道を下りてきたイタリア人女性〔パオラさんはウォーキング中だったようです〕に思い切って訪ねてみることに!旅行者であることを察してくれてか、大変親切にも生誕の家の在る近くまで案内して下さったのです。

   Grazie Mille !!!正に{感謝が1000回}という気持ちでした。

やっと辿りついたパレストリーナ生誕の家
           現在は記念館として保存されています。
             この日は残念!ながら、祝日のため休館でした。


           
レジーナ・マルゲリータ広場中央に建つ
ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナの像
 
 
生家を後にして帰路途中からの眺め


             
              可愛いらしい黒鳥の嘴がみどりの中にで
            一際目立ちました。


             
              これでよし パレストリーナ 街歩き
                                元鷹
                                   
                           
  

2014年5月1日木曜日

第235話 パレストリーナを訪ねて そのⅠ

ローマの郊外およそ38KM東に位置する「パレストリーナ」と呼ばれる
小さな街(海抜500m)をご紹介します。

訪ねたのは先週のパスクア休暇初日の20日〔日〕でした。
例年の如くパスクの日は天をも突くような真っ青な空でした。

ローマ・テルミニ駅から、およそ40分位でZAGAROLO(ザガローロ)駅に
着きます。ここからはバスに乗り換えて、パレストリーナへと向かうのですが、これがなかなか大変です。

インフォメーションが、極めて少ない状態でしたからバスの運転手に確認してから乗車したのですが、それでも若干の不安もあって近くに腰掛けて
いた乗客に行き先を確認して、一安心したさまです。

およそ20分ほどは乗ったのでしょうか?バスは、随分とハイ・スピードで
坂道をよじ登って小高い丘の上へと走りました。親切なイタリア人乗客の二人連れさんが、「次ぎで降りるのよ!」と声を掛けてくれたものですから
本当に助かりました。イタリア人の親切さは身に沁みる思いでした。

名所旧跡の在るところは、何処だろうか?と見回しても一向にそれらしきものは見当たらなかった。まあ、散歩のつもりで坂道をゆっくりと歩こうかと、ローマの街並みとはひと味違ったパレストリーナの景色を楽しみながら散歩しました。

10分も歩きますと時間は、午前11時になっていた。
多くの人がイソイソと教会のミサに入る姿をみて、私も入ることにしました。200人は坐れる位の小さな街の教会でした。ミサは、パスクワに関連したお話だったと思われます。※司祭さんのお話しの中で分ったのは、パオロという人の名前が聞けた程度でしたから、意味は分らずにただただ聞いておりました。

ローマから40分ほどでZAGAROLO駅に
            改札に駅員の姿もなく寂しげな駅でした。


            
  坂道を登った地点から、来た道を撮影しました。


             

             パスクワのミサ参加は、通算2回となりました。
             皆さん、敬虔(けいけん)な心持ちで参加されていました。


              憧れの パレストリーナ 丘の上
                                  元鷹