前回のお話し(ロダン展)を少し補足させて頂きます。
ロダン(1840-1917)は、当時の多くの芸術家がそうであったように
イタリア遊学と言ったらよいのでしょうか、ルネッサンスのあるいはバロックの彫刻を眼の前にしてインスピレーションを得たと云われております。
とりわけルネッサンス初期に活躍した彫刻家ドナテロ(1386-1446)、
ミケランジェロ(1475-1564)から大きな影響を受けたそうです。
ルネッサンス時代、バロック時代(16C末~17C初)には、多くの芸術家を生んでおります。
上記の二人以外では、代表的な人だけでもブルネルスキ、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ボッティチェリ、ティツィアーノ、G/ヴァザッリ、カラバジョ、
ボロミニ、ベルニーニ、等々多彩であります。
さて、ご紹介の「ロダン展」は、現在テルミニ駅100人広場前に位置する
テルメ・ディオクレツァーノ(古代ローマ最大の公衆浴場だった)遺跡の
一部が、ローマ国立博物館(1889年設立)になっており、その中のイヴェント会場にて開催中(5/24迄)であることは、ご案内の通りであります。
広大な遺跡の敷地の一角には、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会があります。その正面は、「共和国広場の顔」に成っていると言えますが、
この教会は1563年と言いますから、ミケランジェロが正に晩年に設計したものです。 ※ミケランジェロ1654年没。
この教会とロダン展の会場は、同じ敷地に在ると言っても良いほどの至近距離ですが、ルネッサンス彫刻の巨匠ミケランジェロに影響を受けた近代彫刻の父ロダンの大理石彫刻がすぐ隣に展示公開されていることに、私は不思議な因縁を感じるのであります。
もう一つは、イタリアといいますか、このロダン展を企画運営したプロジェクトの藝術への奥行きの大きさに、或は芸術への寛容性と云ったものに
さすが、イタリアは芸術の国かな!と感服するのでございます。
ローマを1日でも観光された人ならご納得されることと存じますが、市内の
何処を見ても「石、石、石」の呈を成しています。またヴァチカン美術館をはじめ多くの美術館にも国宝級の彫刻を有する土地柄ではあります。
そんな情況にあっても、さらに付け加えますなら近世のフランスとイタリアとの関係性から鑑みても、ロダンを温かく迎えると言う今回のロダン展は、
相当に意味深いものであると思わざるを得ないのでございます。
どちらの国も世界に冠たる芸術の故郷でありますが、以上のことを踏まえて愚考するに後期ルネッサンスを産んだ土壌を持つここローマに藝術
に対する太っ腹さを覚え、こころからの敬意を表したくなるのであります。
ロダン展に向かう会場入口正面に立つ
「アテネ兵士とヴィーナス」(注:勝手に付けた
タイトルです)
中庭には、憩いの広場があります。
トロフィー(CANTARO)のデザインをした噴水です。
ここの静かな佇まいは格別です。ぜひご来場を!
大理石 藝術創る 鑿(のみ)ひとつ
元鷹
2014年2月28日金曜日
2014年2月23日日曜日
大浴場跡地のロダン展
いつもローマの天候のことで恐縮ではございますが、お聞き流し下さい。
今朝の天気は、春のような空気に包まれて、外の小鳥のさえずりにも春の訪れを感じます。ここ数日の気温は、20度を超えております。
さて先週18日から、5月24日までの期間、ディオクレツィアーノ大浴場跡が、ローマ国立博物館になっておりますが、この博物館の一角(催事スペース)にて、「RODIN il marmo,la vita」(”ロダン” 大理石、宿る命)が、
始まりました。
※日本語タイトル訳は、私の下手くそな意訳で御座います。ご注意を!
たまたま通りかかりましたので、開催初日の18日でもあり、何かの記念に成るものか、と野次馬根性だけで、「近代彫刻の父」と言われますロダンの展示会会場に滑り込みました。
入場料は、10ユ-ロ。(およそ1,450円也)
何せ4世紀の建造物の一部ですから、その雰囲気たるもの堂々異様いや威容であります。
ロダンの作品は、東京上野にございます国立西洋美術館内敷地(中庭)に有名な作品が幾つも並べられています。私の美術歴は、真に薄ペッラにしか過ぎないのですが、それでもあの作品群を観賞すれば、暫く足が竦んでしまいます。
また、ロダンの展示会に話を戻しますと、会場はそれほど広くなく、忙しい観光客には、お薦めの「ロダン展」ではあろうかと、お節介な気持ちも湧きでて参ります。作品を説明出来る力量はございませんので悪しからず。
触りのはお話しだけではございますが、後に載せたる写真でお楽しみ願うほかはございません。
記憶だけでの情報ですから、間違ったらゴメンナサイ!と言う言い訳を先にお伝えさせて頂きます。
それは、三越日本橋本店の中央ホールに聳え立つ「まごころの天女像」の彫刻家佐藤玄々は、ロダンの孫弟子に当る、という関係のことであります。
数少なかったと言われるロダンのお弟子さんの一人にブールデルという人がいましたが、佐藤玄々先生は大正時代にフランスまで留学修業に行き、このブールデル先生の教えを乞うた、ということであります。
また、さぞかし皆様がブールデル先生の作品としてご覧に成られていらっしゃるものの一つとしては、「弓を引くヘラクレス」(ブロンズ・足を岩場に乗せて勇士が弓をグーッと引いている構図です。)が在るのではないでしょうか。
私の記憶では、丸の内にある大手銀行のロビー、そして今一つにはJRお茶ノ水駅(或は、地下鉄出口)を出て直ぐのノッポビルのショーウインドウ?にこの作品を見た記憶がございます。随分前ですから、今はどうでしょうか?機会がございましたら、ご高覧願います。
お話しがあちこちに飛びましたが、このロダン展(全ての作品は大理石)は、一押しの感がございます。期間は、5月24日までと大変長期間です。
ぜひローマにお越しの節には、お運び頂きまして大浴場跡のロダンの藝術にこころを遊ばせてみられることも一興かと存じます。
会場正面には、この作品が展示されています。
ただただ凄い!と惹きつけられました
今朝の天気は、春のような空気に包まれて、外の小鳥のさえずりにも春の訪れを感じます。ここ数日の気温は、20度を超えております。
さて先週18日から、5月24日までの期間、ディオクレツィアーノ大浴場跡が、ローマ国立博物館になっておりますが、この博物館の一角(催事スペース)にて、「RODIN il marmo,la vita」(”ロダン” 大理石、宿る命)が、
始まりました。
※日本語タイトル訳は、私の下手くそな意訳で御座います。ご注意を!
たまたま通りかかりましたので、開催初日の18日でもあり、何かの記念に成るものか、と野次馬根性だけで、「近代彫刻の父」と言われますロダンの展示会会場に滑り込みました。
入場料は、10ユ-ロ。(およそ1,450円也)
何せ4世紀の建造物の一部ですから、その雰囲気たるもの堂々異様いや威容であります。
ロダンの作品は、東京上野にございます国立西洋美術館内敷地(中庭)に有名な作品が幾つも並べられています。私の美術歴は、真に薄ペッラにしか過ぎないのですが、それでもあの作品群を観賞すれば、暫く足が竦んでしまいます。
また、ロダンの展示会に話を戻しますと、会場はそれほど広くなく、忙しい観光客には、お薦めの「ロダン展」ではあろうかと、お節介な気持ちも湧きでて参ります。作品を説明出来る力量はございませんので悪しからず。
触りのはお話しだけではございますが、後に載せたる写真でお楽しみ願うほかはございません。
記憶だけでの情報ですから、間違ったらゴメンナサイ!と言う言い訳を先にお伝えさせて頂きます。
それは、三越日本橋本店の中央ホールに聳え立つ「まごころの天女像」の彫刻家佐藤玄々は、ロダンの孫弟子に当る、という関係のことであります。
数少なかったと言われるロダンのお弟子さんの一人にブールデルという人がいましたが、佐藤玄々先生は大正時代にフランスまで留学修業に行き、このブールデル先生の教えを乞うた、ということであります。
また、さぞかし皆様がブールデル先生の作品としてご覧に成られていらっしゃるものの一つとしては、「弓を引くヘラクレス」(ブロンズ・足を岩場に乗せて勇士が弓をグーッと引いている構図です。)が在るのではないでしょうか。
私の記憶では、丸の内にある大手銀行のロビー、そして今一つにはJRお茶ノ水駅(或は、地下鉄出口)を出て直ぐのノッポビルのショーウインドウ?にこの作品を見た記憶がございます。随分前ですから、今はどうでしょうか?機会がございましたら、ご高覧願います。
お話しがあちこちに飛びましたが、このロダン展(全ての作品は大理石)は、一押しの感がございます。期間は、5月24日までと大変長期間です。
ぜひローマにお越しの節には、お運び頂きまして大浴場跡のロダンの藝術にこころを遊ばせてみられることも一興かと存じます。
会場正面には、この作品が展示されています。
ただただ凄い!と惹きつけられました
会場左側のスペースに置かれた貴婦人胸像
会場手前から撮影。入場者は、数えるほどでした。
このへんもローマの美術館の良い所です。
浴場に お越しませませ ロダン展
元鷹
2014年2月15日土曜日
第221話 ミモザの花を見つけました!
サン・ヴァレンタインのカタコンベの在ると言うマレシアッロ・ピルスドスキ通りを右側に逸れて、それに続く坂道は「サン・ヴァレンティーノ通り」でした。
Y字路を右へ廻って直ぐの歩道で、偶然にミモザの木がたおやかに花をつけているのを見つけました。
ミモザは、春を告げる花として世界中の多くの人から愛されています。
そして間もなく3月8日〔毎年〕には、世界女性の日のシンボルとして
イタリアの街角にミモザの小枝花を売り子が、現われます。
そういえば随分前の話に成りますが、ロンドン、パリ、ドイツなどでは
この日には、やはりミモザの花を女性へプレゼントするのだろうかと疑問にもち、簡単な問合せを各地にしたことがあったことを想い出しました。
ミモザの咲く頃は、アルプス以北の国々はまだ雪が残っている季節ではあります。どうもこの習慣は、イタリア或はローマ独自のものではないだろうか、と思う次第です。
枝ぶりの良い黄色が、グット眼に入りました。
それにしても卵の黄身のような黄いろでした。
見上げれば 黄 緑 青が 眼に入る
元鷹
Y字路を右へ廻って直ぐの歩道で、偶然にミモザの木がたおやかに花をつけているのを見つけました。
ミモザは、春を告げる花として世界中の多くの人から愛されています。
そして間もなく3月8日〔毎年〕には、世界女性の日のシンボルとして
イタリアの街角にミモザの小枝花を売り子が、現われます。
そういえば随分前の話に成りますが、ロンドン、パリ、ドイツなどでは
この日には、やはりミモザの花を女性へプレゼントするのだろうかと疑問にもち、簡単な問合せを各地にしたことがあったことを想い出しました。
ミモザの咲く頃は、アルプス以北の国々はまだ雪が残っている季節ではあります。どうもこの習慣は、イタリア或はローマ独自のものではないだろうか、と思う次第です。
枝ぶりの良い黄色が、グット眼に入りました。
それにしても卵の黄身のような黄いろでした。
見上げれば 黄 緑 青が 眼に入る
元鷹
第220話 サン・ヴァレンタインのカタコンベについて
今日ST.VALENTINE のローマは、今年一番のローマらしい天気だった。
空の色に、吹く風にローマにまるで春が来たのではと思えるほどでした。
さて、サン・ヴァレンタインのカタコンベ(CATACOMBE/初期キリスト教時代に地下に作られたお墓)は、毎年2月14日聖ヴァレンタインの日だけ
一般公開されると言う情報があったので出掛けてみることにしました。
場所はローマ市北部にあたり、音楽の殿堂AUDITORIUMのある方向です。地下鉄A線フラミニオ駅で下車し、トラム2番にて3つ目の駅で降りた。地図を広げながら、カタコンベのあるという地名を探しだしました。
この辺は滅多に来ない地域でもあり、地図を広げても判りにくい。
Viale Maresciallo Pilsudski,2 にカタコンベ(地下墓)が在るというが、山肌に沿っている上り道が、どうも探していた道路のようだったので少し歩くことにした。
結局のところ、道を尋ねて5人目のイタリア人男性が、大変親切にそのカタコンベまで案内してくれたのでした。やはり、このカタコンベは2月14日しか、公開されない事をご存じで、しかもここ数年はその日にも閉っている、とも教えて頂いた。結構な情報通な方だったので安心した次第です。
5分も歩くと目的地の番地にカタコンベがあり、先ずはホットしました。
しかし、想像を超えた荒れた状態のカタコンベに唖然とした。史跡の案内も無ければ、何もなく、全く何十年も放置されたままの様相でした。
入口門は閉ざされて、鉄柵が掛かっていました。
本当にここにサン・ヴァレンタインの遺体が安置されているのだろうか?
何が何だか分からないような始末であった。案内を買ってくれたイタリア人は、GUIDOさんというお名前でした。
暫くすると私と同じ目的でカタコンベに来られたマッシモさんと言うロマーノにお会いした。彼の話しを聞けば、12年前にはカタコンベに入った体験を持つそうで、大層詳しく入場のし方やら地下の構造などを頻りに説明してくれたのが、嬉しかった。
なぜ、サン・ヴァレンタインのお墓が、ローマ市内に在るのだろうか?
司祭としてテルニ(ローマから北に100km程先)の町に居たそうですが
殉教(処刑された)されたのが、ここローマだったからだろうか?
1745年も前のことですから、判らないことばかりなのは仕方が有りません。今日の聖ヴァレンタイン・デイにお二人の親切なイタリア人と束の間の
サン・ヴァレンタイン談義を楽しむことが出来たことが何よりの褒美となりました。
崖の下に見えるカタコンベの入口
随分前から封鎖された気配が漂っていました。
空の色に、吹く風にローマにまるで春が来たのではと思えるほどでした。
さて、サン・ヴァレンタインのカタコンベ(CATACOMBE/初期キリスト教時代に地下に作られたお墓)は、毎年2月14日聖ヴァレンタインの日だけ
一般公開されると言う情報があったので出掛けてみることにしました。
場所はローマ市北部にあたり、音楽の殿堂AUDITORIUMのある方向です。地下鉄A線フラミニオ駅で下車し、トラム2番にて3つ目の駅で降りた。地図を広げながら、カタコンベのあるという地名を探しだしました。
この辺は滅多に来ない地域でもあり、地図を広げても判りにくい。
Viale Maresciallo Pilsudski,2 にカタコンベ(地下墓)が在るというが、山肌に沿っている上り道が、どうも探していた道路のようだったので少し歩くことにした。
結局のところ、道を尋ねて5人目のイタリア人男性が、大変親切にそのカタコンベまで案内してくれたのでした。やはり、このカタコンベは2月14日しか、公開されない事をご存じで、しかもここ数年はその日にも閉っている、とも教えて頂いた。結構な情報通な方だったので安心した次第です。
5分も歩くと目的地の番地にカタコンベがあり、先ずはホットしました。
しかし、想像を超えた荒れた状態のカタコンベに唖然とした。史跡の案内も無ければ、何もなく、全く何十年も放置されたままの様相でした。
入口門は閉ざされて、鉄柵が掛かっていました。
本当にここにサン・ヴァレンタインの遺体が安置されているのだろうか?
何が何だか分からないような始末であった。案内を買ってくれたイタリア人は、GUIDOさんというお名前でした。
暫くすると私と同じ目的でカタコンベに来られたマッシモさんと言うロマーノにお会いした。彼の話しを聞けば、12年前にはカタコンベに入った体験を持つそうで、大層詳しく入場のし方やら地下の構造などを頻りに説明してくれたのが、嬉しかった。
なぜ、サン・ヴァレンタインのお墓が、ローマ市内に在るのだろうか?
司祭としてテルニ(ローマから北に100km程先)の町に居たそうですが
殉教(処刑された)されたのが、ここローマだったからだろうか?
1745年も前のことですから、判らないことばかりなのは仕方が有りません。今日の聖ヴァレンタイン・デイにお二人の親切なイタリア人と束の間の
サン・ヴァレンタイン談義を楽しむことが出来たことが何よりの褒美となりました。
崖の下に見えるカタコンベの入口
随分前から封鎖された気配が漂っていました。
一体全体、どこの誰が管理しているのでしょうか?
不思議な気がしました。左の空いた部分は、入口
なのでしょう。それにしても何の説明書きもない
カタコンベには驚くやらがっかりやらです。
カタコンベ ヴァレンタイン 眠る地下
元鷹
2014年2月12日水曜日
第219話 サン・ヴァレンタイン・デイ を考える
今年も2月14日〔金〕には、「サン・ヴァレンタイン・デイ」を迎えます。
私にとっては、日本に居た時のことですが、この日が近づいてくると、
何ぜだか不思議と居心地が良くなかったことが思い出されます。
一体全体、この「サン・ヴァレンタイン・デイ」とはどんな日なのでしょうか?
今日は、そんなことをご一緒に考えてみたいと思います。
ヴァレンタインと言う人は、古代ローマ時代の司祭だったということです。
時代は、軍人皇帝クラウディウス・ゴティクスのとき(268-270)のこと。
西暦269年2月14日に、司祭ヴァレンタインが殉教した日と伝えられて
いるそうです。それはなぜ?
この皇帝は、ローマ兵士の士気を高揚、維持のために結婚を許可しなかったそうです。妻子を残して戦地に向かわせると戦意が揺らぐとでも
考えたからでしょうか?
さて、ヴァレンタイン司祭(教会は、ローマの北に在るテルニの町です)は、粋な人でした。そんな強兵策?は屁のカッパとばかり、恋する兵士を結びつけた(IL MATRIMONIO / 結婚)と言われています。
しかし、いつの日か皇帝の命によって、ローマ兵に捕えられて牢獄に入れられてしまったそうです。
そこの看守の娘さんは眼が不自由だったそうですが、ヴァレンタイン司祭が、お祈りで奇跡を起こして眼が見えるようになった、と伝えられています。掻い摘んでのストーリーは以上です。
ところで、16年前(1998年)の2月14日に私は、知人と一緒にヴァレンタイン教会をテルニの町に訪問したことがあります。
ローマから車で2時間位の距離でしたが、ほぼ100kmだったでしょうか。
ウンブリア州のアッシジへ行く途中の町です。教会はTERNI(テルニ)の山の中にある静かな住宅街にありました。地味目の小さめな教会でした。
その時の想い出は、恋の成就を願ったものか、家族の幸福を願ったものかは判りませんが、世界から相当数の書状が届いていたことであります。
語るまでもなく、現代の日本では、「サン・ヴァレンタイン・デイ」は多くの人に認知されており、文化的に或は商業的にもおおいに賑わっている次第です。
翻って、ヴァレンタインの本場(?)イタリア・ローマでは、どのような具合に成っているのでしょうか?チャンスをみて、イタリア人に聞いてみようと思います。
御承知のように家庭第一の国がらです。家族・夫婦で恋人同士で、プレゼントの交換や、レストランでの食事会(2月14日は、特別メニューや特別価格などが設定されることも)などがあるようです。
しかし、今日の日本のようにこの時期に成ると話題に上がったり、プレゼントの交換があったりすることはなさそうです。
ドルチェ専門店ダニーノ(ROMA)のショーケース
四季折々の商品ディスプレイがとってもオシャレです。
ナチォナーレ通りのあるファッション・ストアでは、
”Happy Valentine's Day”のプロモーション中です。
ヴァチカン市国に近いコーラ・ディ・リエンツォ通り
レディース・ファッション専門店のショー・ウィンドウ
誰ぞ知る ヴァレンタインの 決死の粋
元鷹
私にとっては、日本に居た時のことですが、この日が近づいてくると、
何ぜだか不思議と居心地が良くなかったことが思い出されます。
一体全体、この「サン・ヴァレンタイン・デイ」とはどんな日なのでしょうか?
今日は、そんなことをご一緒に考えてみたいと思います。
ヴァレンタインと言う人は、古代ローマ時代の司祭だったということです。
時代は、軍人皇帝クラウディウス・ゴティクスのとき(268-270)のこと。
西暦269年2月14日に、司祭ヴァレンタインが殉教した日と伝えられて
いるそうです。それはなぜ?
この皇帝は、ローマ兵士の士気を高揚、維持のために結婚を許可しなかったそうです。妻子を残して戦地に向かわせると戦意が揺らぐとでも
考えたからでしょうか?
さて、ヴァレンタイン司祭(教会は、ローマの北に在るテルニの町です)は、粋な人でした。そんな強兵策?は屁のカッパとばかり、恋する兵士を結びつけた(IL MATRIMONIO / 結婚)と言われています。
しかし、いつの日か皇帝の命によって、ローマ兵に捕えられて牢獄に入れられてしまったそうです。
そこの看守の娘さんは眼が不自由だったそうですが、ヴァレンタイン司祭が、お祈りで奇跡を起こして眼が見えるようになった、と伝えられています。掻い摘んでのストーリーは以上です。
ところで、16年前(1998年)の2月14日に私は、知人と一緒にヴァレンタイン教会をテルニの町に訪問したことがあります。
ローマから車で2時間位の距離でしたが、ほぼ100kmだったでしょうか。
ウンブリア州のアッシジへ行く途中の町です。教会はTERNI(テルニ)の山の中にある静かな住宅街にありました。地味目の小さめな教会でした。
その時の想い出は、恋の成就を願ったものか、家族の幸福を願ったものかは判りませんが、世界から相当数の書状が届いていたことであります。
語るまでもなく、現代の日本では、「サン・ヴァレンタイン・デイ」は多くの人に認知されており、文化的に或は商業的にもおおいに賑わっている次第です。
翻って、ヴァレンタインの本場(?)イタリア・ローマでは、どのような具合に成っているのでしょうか?チャンスをみて、イタリア人に聞いてみようと思います。
御承知のように家庭第一の国がらです。家族・夫婦で恋人同士で、プレゼントの交換や、レストランでの食事会(2月14日は、特別メニューや特別価格などが設定されることも)などがあるようです。
しかし、今日の日本のようにこの時期に成ると話題に上がったり、プレゼントの交換があったりすることはなさそうです。
ドルチェ専門店ダニーノ(ROMA)のショーケース
四季折々の商品ディスプレイがとってもオシャレです。
ナチォナーレ通りのあるファッション・ストアでは、
”Happy Valentine's Day”のプロモーション中です。
ヴァチカン市国に近いコーラ・ディ・リエンツォ通り
レディース・ファッション専門店のショー・ウィンドウ
誰ぞ知る ヴァレンタインの 決死の粋
元鷹
2014年2月8日土曜日
第218話 第217話の補筆余話
サン・ロレンツォ《SAN LORENZO》に纏〔まつ〕わる資料さがしをしてみました。とは言っても、図書館へ出向いて調査したわけではありません。
私の小さな本棚から、小冊子「ローマ案内 平成3年9月 在イタリア日本国大使館」を見つけて調べてみました。詳細は下記の通りです。〔p、5〕
330年コンスタンティヌス帝が258年殉教したサン・ロレンツォの
墓の上に礼拝堂を建てたのが初め。1943年戦災に会い、13世紀
の再建時の姿に修復された。教会内部は二つの教会が結びついて
います。地下礼拝堂にはサン・ロンレンツォ、サン・ステファノ及び
サン・ジュスティーノの各殉教者の遺体が納められています。
ここに記されたコンスタンティヌス帝〔306-337〕は、313年ミラノ勅令
にてキリスト教を公認した人物です。
それ以前は多神教の中にあって、キリスト教は勢力〔信者〕を増してきたがために、そのリーダーであったロレンツォ〔この人物の詳細は不詳〕〔司祭?〕は、軍人皇帝ヴァリアヌス帝〔253ー260〕によって迫害を受け火刑〔258年〕に処せられた。
簡単ですが、以上が「サン・ロレンツォ」について調べたことです。
古代ローマにおける初期キリスト教のリーダーは、命がけの布教活動を
強いられたのですネ。
余談ですが、この聖堂に眠る殉教者の一人サン・ステファノは、毎年12月26日に祝日≪サン・ステファノの日≫として知られています。
ローマの散歩を楽しんでおりますが、キリスト教文化あるいは西洋史やローマの歴史に多少の知識を持ち合わせていなければ、散歩の歩幅も
狭まってしまう気が致します。
さらに申せば、教会や遺跡の説明には、ラテン語表示が普通ですから、
素養のない私などは、”ウーム?”と有無を言う前にチンプンカンプンです。
それでも関心が薄れないのは、少しでも知ることの面白さへの興味がワクワクと湧いてくるからでしょうか。そんな気がして成りません。
私の小さな本棚から、小冊子「ローマ案内 平成3年9月 在イタリア日本国大使館」を見つけて調べてみました。詳細は下記の通りです。〔p、5〕
330年コンスタンティヌス帝が258年殉教したサン・ロレンツォの
墓の上に礼拝堂を建てたのが初め。1943年戦災に会い、13世紀
の再建時の姿に修復された。教会内部は二つの教会が結びついて
います。地下礼拝堂にはサン・ロンレンツォ、サン・ステファノ及び
サン・ジュスティーノの各殉教者の遺体が納められています。
ここに記されたコンスタンティヌス帝〔306-337〕は、313年ミラノ勅令
にてキリスト教を公認した人物です。
それ以前は多神教の中にあって、キリスト教は勢力〔信者〕を増してきたがために、そのリーダーであったロレンツォ〔この人物の詳細は不詳〕〔司祭?〕は、軍人皇帝ヴァリアヌス帝〔253ー260〕によって迫害を受け火刑〔258年〕に処せられた。
簡単ですが、以上が「サン・ロレンツォ」について調べたことです。
古代ローマにおける初期キリスト教のリーダーは、命がけの布教活動を
強いられたのですネ。
余談ですが、この聖堂に眠る殉教者の一人サン・ステファノは、毎年12月26日に祝日≪サン・ステファノの日≫として知られています。
ローマの散歩を楽しんでおりますが、キリスト教文化あるいは西洋史やローマの歴史に多少の知識を持ち合わせていなければ、散歩の歩幅も
狭まってしまう気が致します。
さらに申せば、教会や遺跡の説明には、ラテン語表示が普通ですから、
素養のない私などは、”ウーム?”と有無を言う前にチンプンカンプンです。
それでも関心が薄れないのは、少しでも知ることの面白さへの興味がワクワクと湧いてくるからでしょうか。そんな気がして成りません。
ラテン語標記の説明書き
聖堂前に建つサン・ロレンツォ像台座
の銘を撮影したものと思われます。
(時間が経ってアヤフヤです。)
スラスラと いつか読みたい ラテン文字
元鷹
2014年2月5日水曜日
第217話 七大聖堂巡礼 サン・ロレンツォ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
一体この一月の天候は、どうして仕舞ったのだろうか、と首をひねりたくなるようなここ数日のローマの天気☂です。
今こうしてキーボードを叩いている部屋のタタミ一畳ほどの鎧戸と硝子戸でできた窓の外では、15分おきにどしゃ降りの雨音が聞こえてきます。
それはまるで「雨の神様」が、天に備えた大きな大きな桶から雨水を惜しみ無くぶちまけているような勢い、と言ってもよい位の大雨です。
さて、今年はローマにある所謂四大聖堂とプラス三聖堂を改めて訪ねることを行動計画のひとつとしましたから、先ず一番に未だ訪ねたことがないサン・ロレンツォ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂から訪問することにしました。
VERANO・ヴェラーノと呼んだらいいのだろうか?これまで、この近くを走っているVIA TIBURTINA は、幾度もタクシーや観光バスで通った記憶があります。
ローマ・テルミニ駅のほぼ東に位置するこの「VERANO墓地」を目標にバスで向かいました。
地図を見る限りでは、この墓地付近に聖堂は在る筈だと安心ているせいか、最初は好奇心も手伝ってか、おそらくローマ市内では最大級と思われるヴェラーノ墓地の中に一先ず入ってみることにしました。
墓地の入口付近には、お墓参り用に生花を売っているスタンドもあって、
自然と吸い込まれるかのように入口へ進んで行きました。
兎に角、ローマでは初めてのお墓見学でした。なぜか不思議とお墓の空気が湿っぽく、冷えているように思われてきたものでした。
しかも、午後の早い時間の割には、お墓参りに来ている人と誰ひとり会わずじまいでしたから、余計に心細くなった次第です。
お墓の墓石の作りは、様々でした。驚いたことには、生前の顔写真が墓石の中に組み込まれており、あたかもこちらを見ているように感じてしまう事でした。故人のお名前を読んだりしながら、歩いてみた次第です。
さて、お墓見学はこの位にして、聖堂を探すために直ぐ近くに有った駐車場まで戻ってみることにしました。
さて、”ここが聖堂の正面なのか?”と立ち止まってみたもののさらに塀が右へ右へと連なっているので、先を見てみることにしました。
そうしますと今度は、先の墓地とは全く雰囲気が違った、あたかも公園のような墓地の入口に着きました。「ここも見てみるか!」と腹を決めて中へ歩きだしました。
直ぐに見つかった出口では、守衛さんが同僚と話しあっていたので、質問をさせて頂いた。”ガリバルディのお墓はどこに有るのでしょうか?”と。
曰く、ご家族のお墓はこの区画の此処ここと教えて下さったのでしたが、
ジュゼッペ・ガリバルディ本人のお墓のことは分らない、とのことでした。
私は、ご家族《FAMIGLIA》のお墓を訪ねてみては、写真一葉を撮った。
さて先ほどの壁塀に沿って戻ってみた。そうか、聖堂はこの時間は入れない時間帯だったのだ。そのために正面入り口は、鉄柵で締められていたことが分りました。
横に移動してみれば、少し柵が開けられていて観光本に掲載されていたものと同じ鐘楼を観ることができました。それではと、中に入って鐘楼を見上げるような角度から撮影してみました。
実は、もともとこの聖堂についています聖人の名前”ロレンツォ”とは、どんな人物だったのであろうか?と複数のイタリア人や日本人に聞いてみるものの、判らないという返事ばかりでした。
こうなると調べたくなるのが人情であります。
しかし、手元にはそのような便利な書籍もないことであり、この疑問は改めて、ご案内させて頂く事にしようと思います。
真に残念ながら、サン・ロレンツォ聖堂の曰く因縁の蘊蓄がなく、
ヴェラーノ墓地の見学の話ばかりとなってしまいました。真に恐縮です。
綺麗に並べられた墓参用生花スタンド
この左側に墓地入口がありました。
ロレンツォが 七聖堂の 発句なり
元鷹
今こうしてキーボードを叩いている部屋のタタミ一畳ほどの鎧戸と硝子戸でできた窓の外では、15分おきにどしゃ降りの雨音が聞こえてきます。
それはまるで「雨の神様」が、天に備えた大きな大きな桶から雨水を惜しみ無くぶちまけているような勢い、と言ってもよい位の大雨です。
さて、今年はローマにある所謂四大聖堂とプラス三聖堂を改めて訪ねることを行動計画のひとつとしましたから、先ず一番に未だ訪ねたことがないサン・ロレンツォ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂から訪問することにしました。
VERANO・ヴェラーノと呼んだらいいのだろうか?これまで、この近くを走っているVIA TIBURTINA は、幾度もタクシーや観光バスで通った記憶があります。
ローマ・テルミニ駅のほぼ東に位置するこの「VERANO墓地」を目標にバスで向かいました。
地図を見る限りでは、この墓地付近に聖堂は在る筈だと安心ているせいか、最初は好奇心も手伝ってか、おそらくローマ市内では最大級と思われるヴェラーノ墓地の中に一先ず入ってみることにしました。
墓地の入口付近には、お墓参り用に生花を売っているスタンドもあって、
自然と吸い込まれるかのように入口へ進んで行きました。
兎に角、ローマでは初めてのお墓見学でした。なぜか不思議とお墓の空気が湿っぽく、冷えているように思われてきたものでした。
しかも、午後の早い時間の割には、お墓参りに来ている人と誰ひとり会わずじまいでしたから、余計に心細くなった次第です。
お墓の墓石の作りは、様々でした。驚いたことには、生前の顔写真が墓石の中に組み込まれており、あたかもこちらを見ているように感じてしまう事でした。故人のお名前を読んだりしながら、歩いてみた次第です。
さて、お墓見学はこの位にして、聖堂を探すために直ぐ近くに有った駐車場まで戻ってみることにしました。
さて、”ここが聖堂の正面なのか?”と立ち止まってみたもののさらに塀が右へ右へと連なっているので、先を見てみることにしました。
そうしますと今度は、先の墓地とは全く雰囲気が違った、あたかも公園のような墓地の入口に着きました。「ここも見てみるか!」と腹を決めて中へ歩きだしました。
直ぐに見つかった出口では、守衛さんが同僚と話しあっていたので、質問をさせて頂いた。”ガリバルディのお墓はどこに有るのでしょうか?”と。
曰く、ご家族のお墓はこの区画の此処ここと教えて下さったのでしたが、
ジュゼッペ・ガリバルディ本人のお墓のことは分らない、とのことでした。
私は、ご家族《FAMIGLIA》のお墓を訪ねてみては、写真一葉を撮った。
さて先ほどの壁塀に沿って戻ってみた。そうか、聖堂はこの時間は入れない時間帯だったのだ。そのために正面入り口は、鉄柵で締められていたことが分りました。
横に移動してみれば、少し柵が開けられていて観光本に掲載されていたものと同じ鐘楼を観ることができました。それではと、中に入って鐘楼を見上げるような角度から撮影してみました。
実は、もともとこの聖堂についています聖人の名前”ロレンツォ”とは、どんな人物だったのであろうか?と複数のイタリア人や日本人に聞いてみるものの、判らないという返事ばかりでした。
こうなると調べたくなるのが人情であります。
しかし、手元にはそのような便利な書籍もないことであり、この疑問は改めて、ご案内させて頂く事にしようと思います。
真に残念ながら、サン・ロレンツォ聖堂の曰く因縁の蘊蓄がなく、
ヴェラーノ墓地の見学の話ばかりとなってしまいました。真に恐縮です。
綺麗に並べられた墓参用生花スタンド
この左側に墓地入口がありました。
サン・ロレンツォの銅像が聳えています。
両手には何を持っているのでしょうか?
正面からみた聖堂と鐘楼
GARIBALD家のお墓を見てきました。
但し、ジュゼッペ・ガリバルディのお墓は
別の場所に有るそうです。
ロレンツォが 七聖堂の 発句なり
元鷹
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