2012年10月31日水曜日

ドメニコ フォンターナのこと

私たちにとって、偶然の発見は、こころ躍る愉快なできごとに違いありません。

今回ご紹介しますのは、16世紀にローマの都市つくりを推進した教皇シスト5世の腹心であった
建築家ドメニコ・フォンターナ〔DOMENICO FONTANA〕(1543~1607)の住処(すみか)です。

或る日の昼下がり、サン・ピエトロ大聖堂に近いバス停を目指しているゆっくりと歩いている時でした。ふと通り沿いに架かっていた看板(それはホテル「BRAMANTE」とすっきりした文字が、眼に飛び込むようなデザインでしたが、)の横に、それは白壁塗のどこにもあるような壁面でしたが、しっかりと
歴史的な事象の案内書きが飾られていたのでした。

16世紀後半に、ときの教皇シスト5世の宜しき信頼を得た建築家ドメニコ・フォンターナが、ここVICOLO DELLE PALLINEに居を構えていた住処(現在は3星ホテル)に出遭ったのです。

彼は、1543年にルガーノ湖畔(スイスに隣接した湖)のMELIDE(メリーデ)という村に生まれた人物ですが、どういうわけでローマに来たのでしょうか、またどのような出逢いが、シスト5世との間に在ったのでしょうか、それは不詳です。そして、ローマの都市設計の立役者であったこと、また1607年ナポリにて没したことが記されていました。

彼の建築家としての主な仕事ですが、いまでも私たちの眼にもとまるものが沢山あります。
オベリスクの設置 ①サン・ピエトロ広場 ②ポポロ広場 ③サン・ジョバンニ広場 ④エスクィリーノ広場などのオベリスクです。また、サン・ベルナルド広場にある「モーセの泉」は彼の残した泉です。

そして、以前にも紹介しましたが、フェリーチェ通り(サンタ・マリア・マッジョーレ教会から、丘のトリニタ教会へ真っ直ぐ続く通り)《この通り名は、俗称ですから実際には、現存していません。》の道路つくりを手掛けたそうです。

ここの住処は、成るほど”いざ鎌倉”という時には、サン・ピエトロ大聖堂への距離は僅かです。
教皇からの呼び出しには、飛んで行けるような便利な所ですが、一体これだけの偉業を成した
大建築家が、仮宿にしていたとは思えないような至って控え目な建物でした。

400年後の今でも、改造されたにせよ、ホテル{BRAMANTE}に変わって、世界から訪れる観光客に利用されているのですから、全くの驚きです。石の文化、石の建物の凄さをみるおもいでした。



                  左の石板にドメニコ・フォンターナが、ここに住んでいたことを
                紹介しています。右は、ホテルの看板です。チャンスを作って
                宿泊してみたいと思います。

                 
                中央植込みの奥にホテル玄関があります。
                サン・ピエトロ広場から、3~4分の近さですが、
                人陰のないひっそりとした通り《VICOLO》です。      

                道しるべ オベリスク建てる フォンターナ     元鷹 

2012年10月27日土曜日

ローマのポスト と バチカンのポスト

「不断に、どうしてなのかなぁ?」と言う疑問が、なんかの拍子であるとき、一瞬に解決したときには非常に嬉しくなったり、ホットしたりすることがあります。

例えば、街角の郵便ポストのことです。家族や知人宛に書いたハガキをポストに投函するとき、何時頃郵便局の係り員が、集配に来るのだろうかと、ふと想うことがことが時々あります。

そういえば、ローマに来てからこの方、あちこちのポストから、郵便局からの係り員が、近隣の家々から、或は事務所から投函された郵便物を取り出しに来ている姿を見たことがありませんでした。

郵便物は毎日何時頃に集配にくるのだろうか、と不思議に思って、朝に夜に壁に架かっているポストを眺めることが、いつのまにか癖になってしまいました。

そんなある日、もう1か月前になりますか、何時ものようにバチカン市国の郵便局へ行った帰りのことです。サン・ピエトロ広場を出て、ポルタ・アンジェリカ通りを歩いている時でした。
何と待望の瞬間〔郵便物をポストから取り出す〕を見つめることが出来たのです。

赤いポストの真下に布袋をセット〔ポスト両脇下方にフックがついている〕して、鍵穴にカギを差しむと底板が開いて郵便物が、袋にドット落とす仕組みだった。

この係り員の一連の仕事は、瞬く間に終了してしまい、長い間この瞬間を待っていた私にとっては、何か物足りなさを感じてしまいました。

これまでの経験から察しますに、ローマ〔或はバチカン市国〕から郵便物が、日本へ届けられるまで、およそ5~7日を要します。1枚の葉書の旅は、このようにして始まり、多くの人の手から手に渡って、世界中に、書き手の想いが、届け先相手の玄関口まで届けられるのです。

「E-メール」が、コミュニケーション・ツールの主流になったと言われる昨今、私は頑なに万年筆を愛し、切手を好み、1枚のハガキに向かって、「1日1筆」の行を続けて行きたいと願っています。


                     市内の至るところに設置〔壁掛け式〕されているタイプ。
                     左側は、ローマ市宛先用、右側はローマ以外のイタリア、
                     および外国宛先用です。いたずらシールが、目立ちます。

                       

                バチカン市国にある郵便局入口のポストです。
                色は、御覧のように黄色です。サイズは、タテ約90cm、
                ヨコ約50cmです。ローマ市の赤いポストとサイズは、
                同じようですが、差入れ口は、1つだけです。

                葉に書いた 古代のハガキ 今日はメール     元鷹 

2012年10月24日水曜日

風船草の白い花

ちょうど3カ月前の7月24日〔火〕に、引越し祝いに駆けつけてくれた同僚知人らと植樹祭ならぬ
記念の”タネ蒔き”を楽しみました。

このタネとは、”風船草”というもので、ローマで初めてその存在を知ったわけですが、塩マメのように
まんまるとしたカタチで、まるでお猿さんの顔が描かれているように見える愉快なタネです。

話しは古くなりますが、昨年10月テルミニ駅近くのホテルDIANA屋上にて、日本文化フェスティバル
が、有志によって開催されました。その時のロッテリア≪商品の当る抽選会≫ のハズレ賞の記念品だったわけです。

本来は、夏前に蒔くものらしいのですが、時期にお構いなく”引越し祝い”のイベントの主役となりました。1カ月過ぎても芽が出ない、と心配しては水やりをして、オーナシップのまねごとをしていたのですが、9月前後だったか、記憶に残っていないのですが、雑草と見間違うようなギザギザの葉をつけた風船草が、ニョキニョキと目の前に現れました。

そして、つい昨日には、小さな小さなそして清楚な花を咲かせてくれたのです。
「ワーッ、大変だゾー!」とばかりにカメラを持ち出して、パチリと記念のスナップを撮りました。

芽が出たとき、小さな花をつけたとき、この驚きと言いますか、感動と言ったら良いでしょうか、
もう遥か半世紀も前の幼いころに無心に育てた朝顔のことが、想い出されて不思議な気持ちに
なりました。

11月中には、実を結んで数多くの”お猿さん”を創りだしてくれるのだろうか、と今から楽しみに
テラスに立つ今日この頃です。

ロッテリアのハズレ〔参加賞〕は、”大切な潤いのとき”を私たちにプレゼントしてくれたのです。



                純白の可憐な小さな花は、少しの風でも吹き飛ばされそうに
                思えてなりません。

                 
                     いつの間にか、ノッポになって天へ登る勢い?
                     細めの針金で、ツルが絡み易いようにしています。


                     七変化 お猿の顔は いま美人       元鷹

2012年10月6日土曜日

ヴィミナーレの丘を探す

10月に入ってローマの空は一段と青さに磨きがかかったかのようだ。
所謂、”AZZURRO”(アッズッロ)というイタリア人が好んで使う色表現のそら色のようだ。
蛇足ですが、サッカーなど国際試合でのイタリア選手正式ユニフォームの青色を
アッズッロと呼びます。

そんな秋晴れの下、「七つの丘」の最後になった”ヴィミナーレの丘”を探しました。
これまで訪ねた丘は、確かに、「登った」という実感は其々に多少はあったのですが、
七つ目の”ヴィミナーレの丘”の場合、その場所の確認に先ず調べが要りました。

結局、訪ねたところは、ナツォナーレ通り(共和国広場からヴェニチッア広場へ走る)から、
A.デプレティス通りへ左折して50メートル程の地点にある「ヴィミナーレ広場」だった。
ここは丘と呼ぶには平坦過ぎるので、首を傾げながら広場右側の通り(パレルモ通り)を
歩くことにしました。

パレルモ通りの突き当りには、ミラノ通りが走っています。
それに向かって、ゆっくりと左側、即ち”ヴィミナーレの丘”だろう、という場所を見ながら
歩くと建物が塞がっていて、明らかではないのですが、2000年も以前は丘だったかも
知れないと思わせる箇所が見つかりました。(あくまで勝手な妄想?)

時間の都合もあって、地図上には、緑色で染められた大きな部分をぐるりと巡りまわる
ことは出来なかった。以前に紹介させて頂いた”クィリナーレの丘”周辺の南東に位置し、
また、”エスクィリーノの丘”からは、ほぼ西側に当る位置に据わっている、地域でした。

7月から足掛け4ヶ月間をかけての元鷹流”ローマの7つの丘を歩く”シリーズは、これで
完了しました。分からないことばかりでしたが、目的を持って散歩することの面白さ、思いも
かけない発見の楽しさ、イタリア人ほか、色々な人との出逢いで生まれた”人情味”、ETC.
など、古代ローマの”七つの丘”が、素晴らしいプレゼントを用意してくれていたことを知り
ました。

今日の七つの丘の締め括りが、”ROMAの麗雅都だより”100回目のブログ記事となりました。
第1回のタイトルは、”はじめまして元鷹です”(2011年8月6日号)でしたが、お陰さまで
なんとか14カ月間続けて来られました。ご購読頂いた読者の皆様に感謝します。

そして、「ローマへ行ったらブログを是非トライして下さい!」とアドヴァイス下さったMYさんに、
カメラを用意してくれた留守家族の皆に、そしてPCオンチの私にノートを作ってサポートして
くれた次男Sに、こころからの感謝を伝えたいと思います。

明日から、”初心に帰って”ローマの一面一面をお届けしたいと願っています。




                ヴィミナーレ広場には、内務省がドーンと目に入ります。
                私たちには馴染の薄い所ですが、左となりに在るピツッアテリア
                は、美味しいので、時々お邪魔します。

                 
                
                広場正面中央には、御覧のような筏を担ぎあげたような
                面白いデザインの噴水が、楽しめます。

                
                広場からテルミニ駅へ向かう道路が、ヴィミナーレ通りです。
                イタリア三大劇場のローマ劇場が、中程にあります。


                 逍遙 七つの丘に 足の跡            元鷹     

2012年10月2日火曜日

教皇シスト五世とフェリーチェ通り

前回の話題(“エスクィリーノの丘と教皇シスト五世”)の続きです。
特に教皇シスト五世に惹かれた理由は、ひと言で申しますと街つくりに対する
“アイデアと行動力”であります。

中世時代には、教皇の出身母体は、殆どの場合、通常俗に言う”名門貴族”でした。
しかし、シスト五世は違っていました。薄幸な境遇の中で育ち、やがて教皇まで昇り
つめたという稀有な人生を送ったひとです。

しかしそれでだけであれば、太閤秀吉の出世物語に類似するのですが、私の驚きは他に
あります。短い教皇時代(1585~90)の5年間で、ローマの新都市計画を企て実行したことにその非凡な、そして類いまれな“教皇像”をみたからです。

教皇の都市整備事業の一つにかつて”フェリーチェ通り”と呼ばれた道路が、今でも健在です。ローマにいらした方なら、きっとこの道を利用されたことがあるかもしれません。
スペイン広場を昇り切った所に「丘のトリニタ教会」が建っています。

ここシスティーナ通りから、遠くに見えるオベリスクを目印に真っ直ぐに歩くと、
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に辿りつきます。この通りが、当時(16C以降)
”フェリーチェ通り”と呼ばれていました。(およそ1.5kmの区間です)

シスト五世の本名が、「フェリーチェ・ペレッティ」だったことから、名づけられました。

”フェリーチェ通り”の途中には、「トリトーネの泉」や「四つの泉」などが楽しめます。
「四つの泉」は、交通量の多い交差点です。車に注意しながら、両端を望めばトリニタ教会とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のオベリスクの先端を見ることが可能です。

お気づきかも知れませんが、昨今のような地図案内が無い時代に、一般庶民が目印(建造物)を見ながら、目的地に向かえるようにオベリスク(石塔)を建て、道路を作ったのです。

アップダウンが、あって歩くのは少々大変ですが、途中途中には観光にはもってこいの
名所が、散らばっていて楽しい散歩道です。所要時間約25~30分程度でしょうか。

さて、ここで1冊の新書を皆さんへご紹介させて頂きます。
教皇シスト五世に関する殆どの情報は、この新書から学ぶことが出来ました。
感謝の意を表して、掲載させて頂きます。

     河島 英昭 著  ローマ散策  岩波新書 698

  ≪ご注意≫文中の”フェリーチェ通り”とは、今日でいいます、
       via sistina, via quattorofontane, via a.depretis の3つの通りを
       指しました。
      




              227代教皇SISTOⅤ(シスト五世)の顔写真と
              プロフィールです。サン・ピエトロ大聖堂の
              クーポラ、広場のオベリスクを完成させた、
              との解説があります。    


                9月25日撮影 VIA A. DEPRETIS 通りの中央から、
                スペイン広場方向を撮った写真です。望遠レンズでは
                ありませんので遠くのオベリスクは、青空の中に潜って?
                写っておりません。
                

                ヴァチカン ローマへと 世界から
                                  
                                  シスト五世の都市つくり
                                                     元鷹