2014年10月24日金曜日

第288話 ユリウス城

前話の古代遺跡「オスティカ・アンティカ」のストーリーは、如何でございましたでしょうか?ブログをお読みになっている間、地中海からの爽やかな風を、読者の皆さまのお部屋まで届けできたら、と空想しております。

さて、第288話は「オスティア・アンティカ」の続編といっても良い内容です。お気軽にお読み飛ばして頂ければ何よりです。

さて本論ですが、「ユリウス城」というお城をご存知でいらっしゃる方は少ないでしょうね。オスティア・アンティカ遺跡の正に入口周辺《国道を挟んで》にドーンとどっしり構えている建造物です。〔写真ご覧願います〕

手元には、調べる伝手も少なくて多くを語れません。
唯一、いつもお世話になるガイド本「旅する21世紀ブック望遠郷9ROMAローマ《イタリア》」同朋舎出版から、その歴史をご紹介致します。

城塞の天守は教皇マルティヌス5世(1417-31)が建て、他の部分は
後に教皇ユリウス2世(1503-13)となる枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ロヴェレが、1483年から86年に建てた、とあります。〔同書p416〕

残念ながら、入場できる日が限定されておりまして、当日はNO!の日でした。かと言って、またの日に来ようという訳にも行かず、お城の外側だけで我慢することにしました。

ユリウス城は、お城を完成させた第216代教皇GIULIOⅡの名前をとったネーミングだった訳です。この法王は、ローマ・ルネッサンスを興隆したことで知られています。

SAVONA《北イタリア・リグリーア州》生まれ。ラッファエロ、ミケランジェロらを招いて、藝術・学問を奨励しローマ・ヴァチカン市国を再生させました。サン・ピエトロ大聖堂の再建立にも活躍した法王様でした。

また皆さんが良くご存じのシスティーナ礼拝堂に「最後の審判」(ミケランジェロ作)を注文した法王としても有名です。彼のお墓は、サン・ピエトロ・イン・ヴィコリ教会にありますが、ミケランジェロ作「モーゼ像」で有名です。

それでは、なぜこの法王様〔正確には、枢機卿時代〕はローマ郊外のオスティアにお城を造ったのでしょうか?当時の大権力者であるはずの枢機卿にとって、単に避暑地を求めたものでは無かったようです。

調べてみて分ったのですが、2代前の法王アレサンドロ6世(1492-1503)とのコンクラーベ《法王選出選挙のこと》争いに大いに関係が在ったようですが・・・。

ユリウス2世は、自分のお城の前に古代の遺跡「オスティア・アンチカ」が
地下深くに眠っていたことなどは知らなかったのでしょうね。何せ、遺跡が調査発掘されたのは、近世19世紀になってからということですから。

現在では、オスティア地区のシンボルとして地元に人々や世界からの
観光客に親しまれているお城のようです。



遺跡《を背にした》の入口付近から
             ユリウス城を撮影しました。
             デザインが見事だと感心しました!

            

            ユリウス城の近くまで参りました。
            此処に来た時には、城の歴史も分らなかった
            のですが、今回ブログを書いてビックリしたことが
            沢山ありました。歴史の面白さ、不思議さです。

          
            不思議だな ユリウス城 遺跡前
                                元鷹
            
             

            
            

0 件のコメント:

コメントを投稿