そう云えば昔から〔いつごろか?〕「関東のひとつ残し」という云い方がありました。若い読者にはピンと来ない言い回しであろうかと思われます。
掻い摘んで申すれば、お皿によせられた食べ物の最後の1ケには、手を付けずに、どうぞ「お召し上がり下さい!」とばかりに臨席の人に譲る行為が、「関東のひとつ残し」という美名として引き継がれているのでしょうか?
この辺の処は十分に分かっていない訳ですが、さぞかし〔さぞかし!ですよ〕昨今でも、この辺のアウンの呼吸とやらは、生きて残っていることかと
思われます。
さて、何故このようなお話しを申し上げるかと言いますと、ローマでも同じような慣習〔と言ってよいのやら〕が、存在するからです。
具体的には、例えば事務所の集会や差入れなどがあって、三々五々の仲間内で、用意されたクッキー菓子類を最後のひとつに手を出す人は、先ず居ないのであります。面白い現象ではありますが・・・
どういうわけかと申しますと、ラスト・イーター〔最後に食べる人〕が、使った食器類の洗浄、片付けをしなくては為らない、という不文律があるからだそうです。成程、それで合点〔がってん〕が行きました。
実は、今日〔6月11日〕の午後にこんなことがありました。
あるスタッフが誕生日だったので、彼は朝早くに近くのバールでおやつ用のパン菓子を皆に用意してくれたのでした。おそらく人数分の50人前の数を大きな紙のお皿に盛って食堂に置いてくれたのでしょうか。
私が、そこに昼食に立ち寄ったのが、すでに午後3時を回っておりました。
ふと3テーブルの内の或るテーブルを見れば、1ケだけ残った菓子を乗せた四角いお皿が眼に入りました。
そうです。トランプ遊びの「51」のルールで云いますと、私がジョーカーを偶然にも引いたことになります。なるほど、タマタマですが「ローマのひとつ残し」の瞬間に立ち会ってしまったことになった訳です。
結末は、簡単です。彼の気持ちに感謝しつつ「パクリ!」と一口で菓子を食べてしまいました。罰ゲーム?の後片付けを自ら処理したのは当然でした。何のことはありません。キッチン・ペーパーと紙皿の処分、フォークの
洗浄、片付けだけです。ただそれだけの作業をしてテーブルを奇麗にすればOKです。
もう賢明なる読者諸氏にはお解かりのように、「関東のひとつ残し」と「ローマのひとつ残し」の違いは、”相手をおもう気持ち”と”面倒くささからの逃避”であります。
私の率直な気持ちとしては、「関東のひとつ残し」の思いやりの方に軍配をおもいきり高く上げたいのであります。
サン・ピエトロ大聖堂の夕暮れ。
2012年6月撮影
関東も ローマもひとつ 残せども
施主の気持ち 尚有難く 元鷹
0 件のコメント:
コメントを投稿